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橿原神宮とその周辺を巡る

奈良市内から大和西大寺駅で乗り換えて急行列車で40分、特急列車で36分、大阪阿部野橋駅からは急行列車で38分、特急列車では35分で橿原神宮のお膝元、橿原神宮前駅に到着します。そこから、徒歩で200mほど歩くと、南大和の大神社の一つ、橿原神宮となります。

この橿原神宮は、明治23(西暦1890)年に建立された神社ですが、その経緯について再び、『奈良県の歴史散歩』を開いて追っていきます。建立から2年もさかのぼる明治21(西暦1888)年、『日本書紀』に記されている神武天皇が紀元前660年とされる辛酉年に即位した記事から、宮跡を神社として整備することが決まったとあり、賢所(温明殿)を本殿とした神社が建立されることになりました。


参考としてですが、京都府京都市左京区岡崎にある「平安神宮」は、建立年が橿原神宮の建立から4年後の明治27(西暦1894)年ですので、「日清・日露」両戦争の影響による天皇の神格化の流れによる影響が表れているようです。しかし、現在の規模にまで拡張されたのは、明治45(西暦1912)年から、大正15(西暦1926)年までの神社拡張工事と、昭和13(西暦1938)年から2年にわたって行われた「皇紀2600年記念奉祝記念事業」による神社拡張工事によるものです。

特に、後者の拡張工事では、建国奉仕隊と呼ばれる延べ120万人(日本人口の約1割)を動員しての神社および外苑の整備します。ちなみに、現在の「橿原神宮陸上競技場」、「橿原会館」、「橿原野外公堂」、「橿原考古学研究所付属博物館」は、この工事によって建設された施設です。この事業に合わせて、現在の近鉄南大阪線と橿原線のジャンクション駅となった現橿原神宮前駅も、この事業の影響を受けた駅で、現在の駅は南大阪線と橿原線が、構内でつながる構造となったのもこの事業の影響によるものとされております。
その北東で、橿原遺跡が発見され、縄文時代から奈良時代にかけての調査が行われております。
少し脱線しましたが、この橿原神宮の見どころは、多くの社殿です。社殿建築のトップクラスといえる建物群が並びます。
そして、池にはカモたちなどの野鳥類がたくさん飛来してくる「深田池」があり、野鳥観察をされる方には、いいロケーションでの撮影が期待できるような風景が広がります。

さて、その神武天皇についての記事が『近鉄沿線謎解き散歩』から引いてみます、橿原神宮から北に入ったところ御陵がありますが、ここが果たしてが「神武天皇」御陵なのかどうかはっきりしていません。 理由は2つあります。一つは「神武天皇」自身が紀元前660年のこと、実は時代としては縄文時代の末期で、小国分立も起こっていない時代です。ところが、この時代に天皇が出たというのは、話の筋が通らないということになります。

さらに、宮崎県の高千穂地域から、発した遠征で一度だけで、完全に掌握できたのか否かという部分も謎ですし、6年だけで数百年にわたると統治期間を短くしたというのは、少し筋が合わないということになりますよね。
それに、もう一つは墓の存在が明らかになっていないということです。どうしてなのでしょうか、元禄10(西暦1697)年に江戸幕府の調査隊が調査した結果は、「塚山」ということになりました。しかし、この結果は『古事記』「白樫尾の上」の記述に合致しないということになり、記述が合わないということになってしまいます。
では、どういうことなのでしょうか、ある説では「ミサンザイ」(御陵のなまり?)からなまったということからですが、それ以外にも「丸山説」というのがありますが、幕府が採用したのは「ミサンザイ」説だったそうです。
実は、その名前が近鉄電車の駅名で、「畝傍御陵前駅」という駅名も、この説を採用したということから付いたものだといえます。

では、この場所から少し離れ、近鉄南大阪線の線路を越えて、南に向かって歩いていきます。橿原神宮前駅から西に歩いて160mほどの位置に「久米寺」があります。
この「久米寺」は、久米寺超集落の北端に建立された寺院で、線路をまたいで北側に、橿原神宮があります。実は建立年代がはっきりしていない寺院でもあり、久米仙人が建立したという伝説が残っているといわれております。
また、聖徳太子の弟・来目皇子(くめのみこ)が建立したという話もありますが、さらなる説として、久米部の出身地に建立され、民間のお寺として建立されている寺院という説もあります。ただ、はっきりしたことが分かっておりません。
特に、『扶桑略記』『七大寺巡礼私記』では、久米寺の創建は久米仙人としています。ただ、伽藍の発掘調査から奈良時代前期にまでさかのぼることができますが、この2書と『今昔物語集』の巻十二本朝仏法部にも収録され、『徒然草』にも言及されている記事です。 吉野・龍門寺の久米仙人は仙術の修業を吉野にある龍門寺で行い、その結果空を飛べるようになったそうです。
しかし、川で洗濯をしている女性の服はぎに見とれて地上に落下したことから物語が始まります。その女性と夫婦となった久米仙人は、俗人となって遷都に携わる労働者として雇われ、材木の運搬に従事。 過去を知る人物から「仙術を使って、木材を運んでくれるか。」とけんかを吹っかけられて、一念発起した久米仙人は7日7晩祈り続けた後、仙力を回復して仙術で、山にあった材木が次々と空へ飛び上がらせ、新都へ運んでいくことから、天皇は久米仙人に免田30町を与え、そのために建立したのが、「久米寺」という話もあるようです。
少し横道にそれましたが、「久米寺」は、見どころは、さほど多くはありません。しかし、創建時は、巨大な伽藍だったことが分かっております。この巨大な伽藍の建物のうち、現在ある建物は江戸時代に改修されて、金堂、観音堂がその時に再建されたものです。
中でも、万時2(西暦1659)年再建の多宝塔は、仁和寺からの移築とされております。 また、ユキヤナギ、ツツジ、アジサイの美しいお寺なのですが、このお寺の中心は東塔後に再建建立されており、創建当時は西側に大きく張り出した大寺院だったことが推定されているそうです。

続いては、橿原神宮前駅に戻って、電車で2分、さらに歩いて200mほど、橿原神宮の敷地内にある「橿原考古学研究所付属博物館」です。
「橿原神宮」の説明で、触れておりましたが「皇紀2600年記念奉祝記念事業」の一環で建設された大型施設です。

「皇紀2600年記念奉祝記念事業」の工事中に発見された橿原遺跡の調査を目的として、奈良県の手で「橿原考古学研究所」が開設されたことと、その「橿原考古学研究所」の研究結果を展示する施設として、昭和15(西暦1940)年に開館、当時は「大和国史館」という名称だったようです。
現在の「橿原考古学研究所付属博物館」という名称にあらたまったのは、昭和55(西暦1980年)からです。 
見どころは、なんといっても数多くの展示品ですね。主に、縄文時代末期から飛鳥、奈良時代に至る1000年の出土遺品が展示されております。
たとえば、『古事記』編集に関与した太安万侶の遺骨の入った土葬墓と、骨壺の展示のほか、二人の男性が葬られた墓の剣などが展示されております。ほかにも、たくさんの展示品を見ることができます。

さらにですが、縄文時代の主な遺品等も発掘された状態で、遺構ごと切り取ったものもあります。もう一つは、大型の石棺など、飛鳥地方から、奈良市内まで多くの所蔵品が展示されております。
研究所付属の博物館だからこその強みかもしれませんが、奈良県内の様々な遺跡群の出土品を一度に見ることができるという強みはだてではありません。
ちなみに近くで、お土産店もありますし、ミュージアムショップもありますので、お土産を買うことができます。地元に近い「くず」のお菓子などを購入してもいいかもしれません。

また、ミュージアムショップでは、古代のアクセサリー(勾玉・管玉)をモチーフにしたお土産も販売しております。できれば、レトロなものが好きなお方や、古代史がお好きな方には、こういったものをお求めになったり、大切な人の贈り物としてお求めになるのもいいかもしれません。
今回ご紹介した場所は、駅から電車、または徒歩で行ける範囲ですので、簡単にめぐることができるルートだと思いますので、おススメしますよ。

(参考文献:『奈良県の歴史散歩』奈良県歴史学会編 山川出版社 『近鉄沿線謎解き散歩』松尾光著 新人物文庫から「神武天皇御領はどうして現在の地に決められたのか【畝傍御陵前駅】」 参考サイト:『青森行の「日本海3号」ブログ』より「鉄タビ(臨時便)」シリーズ 「桜咲く? 吉野の巡る初詣タビ 23から35」までを編集)

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