top of page

長谷・室生へ

さて、近鉄沿線の中で長い距離を走る路線の一つが、大阪線です。大阪上本町駅から急行列車を飛ばして桜井駅まで、そこから15分後に追ってくる区間準急列車に乗り込んで10分、近鉄長谷寺駅に到着します。そこから歩くのには距離がありますが、330mほど歩いていくと「長谷寺」に到着します。

この「長谷寺」は、初瀬川の北側の谷に密集していて、この初瀬地域仏教寺院が建立されたのは、養老(西暦717年から西暦723年まで)と神亀(西暦724年から西暦729年まで)年間にかけて、観音信仰の中心地となり、十一面観音立像が安置されたのもこの時代とされております。
さて、その観音信仰が盛んになったのは、平安京遷都後の平安時代からとされております。それまで、仏教が目指していたのは国家安定という考え方で、奈良市にある「東大寺」と「大仏殿」および「大仏」は、そのシンボルとして存在しておりました。

しかし、この時代から、現世利益を中心とした今日の仏教に、変質したという流れがあります。 それまで、朱鳥元(西暦686)年に天武天皇の病気平癒を目的として、三重塔を建立して以降「鎮護国家」の担い手の一員の寺院として、日本の社会を見守る役目を果たしておりました。平安時代の中ごろに至ると、その流れが落ち着き、観音信仰が盛んになっていきます。
「文学編」で書き忘れていたのですが、紫式部の代表著作『源氏物語』には、この「長谷寺」が「日本の霊験あらたかな寺」という表記で登場してきます。こういった記述から長谷詣が人気になったということになるのかもしれません。その記事から、長谷詣及び参籠が盛んになっていきました。

貴族たちは、最初は立身出世、蓄財、不老長寿などを追い求めていたといわれております。それから平安中期となる西暦11世紀に至り、摂関家にも広がります。藤原道長を摂関家だけではなく、女性の参詣者も多くなります。その一例として、エッセイ集の『枕草子』執筆を手掛けた清少納言自身も、「長谷寺」で霊験話の取材で訪れたようです。また、鎌倉文学の一つ『住吉物語』では、姫と少将が恋に堕ちる舞台として登場します。
ほかにも、数多くの貴族や気鋭の作家が訪れているのですが、時代が下るにつれて、庶民および、一般化していきます。
江戸時代になると、伊勢詣でとの連携が加速し、大坂からの旅行客がこの「長谷寺」を目指すという観光地としての役目もあったというのです。

それでは、見どころですが、本尊となる「十一面観音立像」と、そのほかの塔頭、さらに宝物館にある国宝仏像などが見どころとなります。ほかには本堂から眺める初瀬の風景といえばいいでしょうか。それが見どころかもしれません。

そのあと、長谷寺駅に戻って、列車で東に少し出て宇陀市の中心駅榛原駅で乗り換え4分、急行列車で6分、合計15分で室生寺の最寄り駅となる室生口大野駅に到着し、そこからバスで10分、山奥に入ったところに、あるのが「室生寺」に向かいます。
「室生寺」は別名を「女人高野」と呼ばれておりますが、もともとここは、室生火山帯の中に洞窟が出来上がったため、この地形から、農耕社会には必要となる雨ないし水の神様が祀られることとなったとされております。
その中で、天武天皇10(西暦681)年に、天武天皇の勅命で役行者が建立して、空海が再興を促したという寺伝がありますが、「宀一山年分度者奏状」では、室生への信仰が厚かった桓武天皇が、興福寺の僧賢憬上人が建立した後は、高野山の建立を指導した空海の弟子、真泰上人が入山したことから、真言宗に代わっていくのです。

ところが、実はこののち「室生寺」は、一旦は興福寺の末寺となります。しかし、元禄11(西暦1689)年には徳川綱吉によって、真言宗に戻ることになります。このときに、「女人高野」という別称が加わり現在に至ります。
見どころは、初めは弥勒堂と金堂、金堂から階段を上がり本堂と五重塔と変わります。そのわきにはシャクナゲなどの花が咲いており、ゴールデンウイークが一番いい季節になりますが、それなりに人が多いので、ご注意ください。
そして、そこから奥の院までは山を抜けていくのですが、そこまで行くのには、少し足の弱いお方にはきついのかもしれません。 
やはり、五重塔だけを見たいお方は、奥の院にはいかないで、伽藍内でとどまるといいのかもしれません。お土産としては、草餅と葛餅が近くの売店で販売されているようですから、おススメです。

(参考文献:『奈良県の歴史散歩』下巻 山川出版社 【長谷寺のみ】『近鉄沿線謎解き散歩』より「平安時代に長谷詣や参籠がはやったのはなぜ?【長谷寺駅】」参考サイト:『青森行の「日本海3号」ブログ』より「鉄タビ(臨時便)」シリーズ 「志摩風と長谷寺へ 6と7」と「女人高野を目指して―室生寺への旅 3~7―」までを編集)

bottom of page