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吉野を巡る

橿原神宮前駅からさらに南に、特急列車で40分、急行列車でも50分。近鉄吉野駅から乗り継ぎのケーブルカー(ロープウェイ)で5分。すると吉野山の玄関口吉野ケーブル吉野山駅に到着します。
そこからは、ひたすら歩いていくのですが、寺社配置が駅から直線的に結ばれており、近くを歩けば見どころに当たる。つまり、「犬も歩けば棒に当たる」というような感覚で、寺社に当たる確率の高い観光地です。

一番いい季節は、桜の開花で有名な4月下旬から5月にかけてと紅葉の季節に当たる10月中旬から11月にかけての季節とされております。静寂を楽しみたいというお方には、合間の季節をお勧めします。特に私は、1月の正月に行ったので静かでした。

さて、この吉野山の中で、その入り口に構える寺社となると、蔵王堂こと「金峯山寺」です。実は、「金峯山寺」を含めた「吉野・大峰国定公園」は修験者の道場として有名ですが、この「金峯山寺」はその玄関口の役目も同時に果しているというわけです。ちなみに創生年代は、奈良時代にまでさかのぼるといわれております。ただ、役行者の開山かどうかについてはいろいろと説があり、定かではありません。

故に、寺院自体の草創期を記した正確な事情がわからないどころか、創立当初どのような寺院であったかなどについては不詳となれば、「蔵王堂」は一番興隆したのはどの時代なのかという疑問が出てきます。 実は、一番興隆した時代は平安時代だといわれており、空海の「真言密教」との関係が深いとされているのです。密教の聖地である「高野山」とは山野を隔てられているとはいえ、同じ山岳信仰の地域に含まれており、修験道と密教も同じ修行場にあることも背景にあると考えられます。
それに、醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝上人の助けで再興が図られ、西暦11世紀に入ってからは末法思想が根付き、多くの政治家、皇族が吉野参拝を頻繁に行うようになっていきます。摂関政治の中心的な人物といわれた藤原道長をはじめ、宇多天皇、白河上皇が有名です。

そののち、平安時代の末期以降は、歴史の表舞台に登場してくる機会が増えていきます。その始まりといえるのが、小説『太平記』の時代です。
その吉野地域で、倒幕運動を起こしたのが大塔宮という愛称がある護良親王でした。その後、護良親王は足利尊氏の手によって命を落とすのですが、そののちも、この地方は南朝の中心拠点として機能していきます。

その中で、南朝の中心地となった吉野ですが、「金峯山寺」はこの間、どうなったのかといいますと、南北朝時代に入ると、「建武の親政」以降にやってきた天台宗と、開山当初から関係がある真言宗の対立の渦に巻き込まれていきます。
そのまま300年ほどの年月が経った、慶長19(1614)年、天海僧正が学頭に就任したことによって、天台宗の管轄下に置かれることになります。明治期の廃仏毀釈以降も天台宗で復興を遂げておりますが、考えてみると天台宗も、真言宗も修験道と関係があるので、なじみやすかったのかもしれません。

さて、前置きはここまでにしますが、見どころは多くの寺院建築群です。ただ、木造蔵王権現立像といった仏像も有名ですが、昭和52(西暦1977)年から非公開となっているそうで、正月などに公開しているという話があり、その日をめがけていってみるのもいいかもしれません。また、国宝、重要文化財がたくさんあり見どころの一つといえます。

その「金峯山寺」を出てから歩いて300m、そこに「吉水神社」があります。「吉水神社」も、「金峯山寺」と同じく、創建年代がはっきりしていません。正式名称は「吉水院」となりますが、神社として歩みだしたのは、150年前の明治年間に入ってからとなります。 日本史に、この「吉水院」が出てくるのは南北朝の延元元(西暦1336)年にさかのぼります。南北朝の南朝が「吉水院」に、御所を構えたことから、この号が用いられているといわれております。
このほかにも、見どころは神社ではなく、御所であったころの名残を残す庭園がありましたが、文禄年間(文禄元{西暦1591}年から)の秀吉の時代に入ってから、吉野の桜を見物した時に、本陣として使われたという記録が残っており、これがのちの「醍醐の花見」につながります。
その後、廃仏毀釈の時代を潜り抜けてのちに、「吉水神社」として生き残っていきます。 さらに、アニメ作品『咲―Saki―』の舞台に選ばれたことです。吉野の各地域が舞台になっていますのでそこも見どころです。 

「吉水神社」から歩くこと200mほど、「勝手神社」がありますが、この「勝手神社」は平成13(西暦2001)年の不審火で焼失していたそうです。
しかし、この「勝手神社」の中身を調べてみると、豊臣秀頼が慶長9(西暦1604)年に再建した後、2度も大化にあった後、再建されたという話があります。 
そして、もう一つの見どころというと、下に下ったところにある「大日寺」という寺院があります。これが吉野山の中では最古お寺となることが知られており、中にある本尊五智如来が有名となっております。

「勝手神社」から道が分かれるのですが、山側に分け入ってみること600mほど歩くと、「桜本坊」と「竹林院」に入ります。この場所は、「喜蔵院」も近くにあるのですが、そこを素通りして、「桜本坊」は日雄離宮とされており、天武天皇の僧として暮らした場所とされております。
元禄3(西暦1594)年の「吉野の花見」の折に、豊臣秀次のご宿舎となっておりましたが、現在の名称となったのは、明治5(西暦1872)年となります。 なお、見どころといいますと、白鳳期の釈迦如来坐像を筆頭とする仏像類を上げることができます。これらは重要文化財に指定されております。
続いては、「竹林院」です。この「竹林院」は、手前がホテルとつながっているという珍しい寺院で、ホテルにご宿泊されている方には幸運というべきところかもしれません。 中は、一般的な寺院とは異なり、寺伝では、聖徳太子が開創して椿山寺と言う寺院を建立したことに起源を発するといわれていますが、一部では空海が弘仁2(西暦818)年に、創建したという説もあります。ちなみに、現在の「竹林院」となったのが、至徳2および元中2(西暦1385)年、その前の名称は真言宗の「常泉寺」、さらにさかのぼって、創建時は「常楽寺」と名乗っていたようです。

「勝手神社」から道が分かれるのですが、山側に分け入ってみること600mほど歩くと、「桜本坊」と「竹林院」に入ります。この場所は、「喜蔵院」も近くにあるのですが、そこを素通りして、「桜本坊」は日雄離宮とされており、天武天皇の僧として暮らした場所とされております。
元禄3(西暦1594)年の「吉野の花見」の折に、豊臣秀次のご宿舎となっておりましたが、現在の名称となったのは、明治5(西暦1872)年となります。 なお、見どころといいますと、白鳳期の釈迦如来坐像を筆頭とする仏像類を上げることができます。これらは重要文化財に指定されております。

続いては、「竹林院」です。この「竹林院」は、手前がホテルとつながっているという珍しい寺院で、ホテルにご宿泊されている方には幸運というべきところかもしれません。 中は、一般的な寺院とは異なり、寺伝では、聖徳太子が開創して椿山寺と言う寺院を建立したことに起源を発するといわれていますが、一部では空海が弘仁2(西暦818)年に、創建したという説もあります。ちなみに、現在の「竹林院」となったのが、至徳2および元中2(西暦1385)年、その前の名称は真言宗の「常泉寺」、さらにさかのぼって、創建時は「常楽寺」と名乗っていたようです。

見どころはなんといっても、その庭園の広さでしょうか、この「群芳園」という名前があり、雄大な景色を楽しむことができます。
ちなみに、昭和天皇が吉野にご参拝なされたときに、このお寺の隣にあるホテルにお泊りになられたことがあります。そして、その庭園をご覧になったのだそうです。

さて、来た道を戻っていく途中には、葛粉および、葛餅などを販売しているお店もあります。お土産にひとついかがでしょうか…。
さらに、おススメしておきますのが、「葛餅」と「くずきり」を製作工程から説明してくれるお店があります。
その他にも、くずきりや葛餅などを買って見てもいいのかもしれませんし、くず粉を買って、片栗粉のように使用してみても。

(参考文献:『奈良県の歴史散歩』奈良県歴史学会編 山川出版社 参考サイト:『青森行の「日本海3号」ブログ』より「鉄タビ」シリーズ 「桜咲く? 吉野の巡る初詣タビ 01から22」までを編集)

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