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奈良平城外京編(春日大社と東大寺を巡る)

奈良市内は観光で、何度か訪れたことがあります。
ただ、その観光している場所は固定されており、私の場合は「興福寺」から「東大寺」を廻って、「春日神社」を目指すというのが定番のコースです。
私が最初に奈良を、訪れたのは3歳のことですが、初めて奈良の美しさを知ったのは、小学生のことであったと覚えております。さて、私的な前置きはここまでにして、何度も訪れている定番コースの寺院をご紹介していきます。

最初は、近鉄奈良駅から徒歩で東に100mほどの場所にある「興福寺」です。「興福寺」は「南都六宗」の本山の一つですが、最近有名となったのは「阿修羅像」などの鎌倉奈良仏師制作の仏像群であり、その魅力は海外にも知られるほどです。
この寺院は藤原氏の氏寺であり、「春日神社」は氏神という関係から、摂関家などの庇護を受けてきました。特に、藤原氏の始祖である藤原鎌足が重病となった天智天皇8(西暦669)年に病気平癒を目的とした寺院が、山城国山階(現在の京都府京都市山科区に当たります)に開かれたことが最初とされております。「壬申の乱」を契機に飛鳥に、和銅3(西暦710)年の「平城遷都」で現在の地に移転し、その年に「興福寺」と改められたとされております。

平安前期には巨大な伽藍を備えた大寺院に生まれ変わり、政治的にも大きな勢力として成長し、「強訴」に訴える僧兵も多く、何度も戦火ないし大火事に見舞われた寺院でもありました。 結果的に享保2(西暦1717)年の大火事で、伽藍の大部分が焼失し、残った建築物は3か所だけとなっております。中でも観音信仰の本山的な役目も果たしている南円堂を再建した後は、完全復元に時間がかかっているとされております。明治時代に入ると廃仏毀釈の被害を浴びてしまい、法相宗の大本山として現在に至っているとされております。
見どころは、宝物館が新設されたことですが、この宝物館には千手観音像、仏塔といった数多くの仏像たちが出迎えてくれるので、五重塔などはかすむほどです。ちなみに、小さくはありますが専用の駐車場がありますので、車でお越しのお客様はそこをご利用なさってください。

ほかにも見どころを上げていきますと、多くの建物群を上げることができます。どれも国宝、または重要文化財の建物があり、目を楽しませてくれますので、ご覧になってはいかがでしょうか。

その場所から再び徒歩で、「東大寺」に向かいます。この「東大寺」は、「法華寺」が国分尼寺の総本山なら、国分寺の総本山となります。さて、それについてですが、大仏などに関しては「歴史編」の特集で詳しく話しておりますので、ここではその後について、少しお話しいたします。

まず、延暦年間に造営に関する役所が解散した当時は、壮大な伽藍が広がっておりました。この「東大寺」の「大仏殿」についてですが、様々な発掘調査及び資料分析によって、今の「大仏殿」の倍の規模を誇っていたようです。しかし、倍の規模が縮小した理由も、南都炎上事件などによる戦火と地震によるものです。
そのため、見どころは、国宝の盧舎那仏座像を含んだ「大仏殿」と「二月堂」などの建築群、さらに、「二月堂」からの風景が魅力です。「正倉院」は、現在内部が公開されておりませんので、奈良国立博物館で開催される「正倉院展」で宝物を見ることができます。秋の特別公開の時期に訪れてみるとよいかもしれません。

まず、延暦年間に造営に関する役所が解散した当時は、壮大な伽藍が広がっておりました。この「東大寺」の「大仏殿」についてですが、様々な発掘調査及び資料分析によって、今の「大仏殿」の倍の規模を誇っていたようです。しかし、倍の規模が縮小した理由も、南都炎上事件などによる戦火と地震によるものです。
そのため、見どころは、国宝の盧舎那仏座像を含んだ「大仏殿」と「二月堂」などの建築群、さらに、「二月堂」からの風景が魅力です。「正倉院」は、現在内部が公開されておりませんので、奈良国立博物館で開催される「正倉院展」で宝物を見ることができます。秋の特別公開の時期に訪れてみるとよいかもしれません。

また、阿形と吽形像が仁王立ちしているあの「南大門」も有名で鎌倉時代再建となります。
さらに、「東大寺」を歩くと様々な建築物に出会うことができます。たとえば、「大仏殿」から東側に歩き、「二月堂」との間に出ると、「念仏堂」などの建物が見えてきます。
特に、「大仏殿」以外に仏像を収容しているお堂として、「法華堂」をご紹介しておきます。このお堂は別名「三月堂」という別称がありますが、内部にある仏像類が多く見どころが多いのも特徴です。特に「不空羂索観音立像」と「梵天」および「帝釈天」が収められているなど、唐風の仏像類が見られるところにあります。
ほかにも仏教の戒壇を授ける「戒壇院」などにも仏像類がありますが、「大仏殿」の「大仏」に隠れているので、時間が余っているという方にはもってこいかもしれません。

さて、「東大寺」から南に進路を取り、歩いて500mほど行けば交差点にぶつかり、さらに600m歩くと、全国の「春日神社」の総本山となる「春日大社」に出てきます。
 

この「春日大社」ですが、本殿に至るまで長い参道があり、そこをのんびりと鹿の歩く姿に、愛嬌があることで知られております。
しかし、この鹿は「春日大社」の守り神の役目も果たしており、全国各地に広がる「春日神社」の守り神の銅像には、必ず鹿が置かれております。ほかの神社でしたら「駿馬」が定番ですが、その鹿が奈良公園ほか、各地を闊歩しているということは知られております。

奈良のシンボルである鹿と、「春日大社」の関係は切っても切れません。その理由を述べると複雑になってくるのですが、光明皇后の出自伝説にもかかわってきます。実は、光明皇后の父にあたるお方が、鹿を助けたのですが、その鹿が女性に姿を変えて、そのお方と間に生まれた子供が、光明皇后だったという伝説が、大阪府和泉市にあります。そこからも、藤原氏の氏神として有名な「春日大社」は鹿との関係が強いといえるかもしれません。

さて、この「春日大社」の見どころは、神殿建物の数です。その拝殿中でも宝物殿に、柚木型灯篭、金地螺鈿毛抜型太刀などの宝物も残されております。本殿の中で拝礼して宝物を見るのもいいと思います。

(参考文献:『奈良県の歴史散歩』奈良県歴史学会編 山川出版社)

補足1:

藤原氏が、春日大明神を氏神にしていたことは、知られておりますが、足袋の語源についての説でも、大阪府和泉市はかかわっていることがわかっており、和泉市の一部地区に「鹿」の字がつく「妻鹿坂」という地名も残っております。

ちなみに足袋の形が、鹿の足に似せて作られたという逸話も残されており、鹿との関わりが深い藤原氏を象徴するともされております。

さらに、伝説自体も奇妙なもので、鹿を母親としたら、人獣どちらに分類されるのかわからない女性を、娘として迎えるのかという疑問があります。

​伝説だからこそ、なせることかもしれません。

 

補足2:

実は、大仏殿は何度も戦災に見舞われておりますが、その中で証拠として絵巻物が残されております。

戦国時代のころに松永久秀が主導した『東大寺合戦』があります。その合戦ののち、慶長伏見地震などを経て、現在の大仏殿は江戸時代に当たる寛永年間の建立とされております。

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