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平城京エリアを歩く

奈良市内には多くの寺社があります。しかし、多くの寺社の中でも平城京の成り立ちなどに関係した寺社を訪れてみようということで、友人と二人で選んだのが、次の4寺院です。1か所目は、「海流王寺」、2か所目は、「法華寺」、3か所目は「薬師寺」、4か所目は「唐招提寺」です。

雨が降り続いた中で、バス停から「大和西大寺駅」に向かうバスに乗り込むこと10分、1か所目と2か所目の寺院をめざしていきます。場所は「海流王寺」が、バス停から北に歩いて240mほど、法華寺は、西に歩いて800mほどのところにあります。

最初に、「海流王寺」の建立年代は、飛鳥時代にまでさかのぼるといわれておりますが、「法華寺」の敷地を含めて、『大宝律令』の制定に関わった藤原不比等の屋敷跡だったといわれております。『新全国歴史散歩シリーズ 奈良県の歴史散歩』の上巻には、遣唐使で阿倍仲麻呂および、吉備真備とともに、唐に留学僧として渡った「玄昉」がお住いになったと書かれております。それ以前の記述ははっきりしていないのが、実情といわれております。
近年の伽藍内での発掘調査では、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての屋根瓦が出土しており、「経師等造物并給物案」という写経関係の文書では、「隅院」という名称の寺社が存在していたことが、天平10(西暦738)年の記事から、別の資料では、天平8(西暦736)年に建立されたという記事が伝わってきております。

それでは、伽藍を紹介していきます。「海流王寺」の創建当時は中金堂を中心に、東西の金堂が渡り廊下でつながる構造で建立されておりました。平安時代に興福寺の管轄下にあったとされており、治承4(西暦1180)年の平家南都炎上事件によって、戦火に巻き込まれ焼失の被害を受けた後に、嘉禎2(西暦1236)年に真言律宗開祖叡尊上人の尽力によって復興を果たしました。
その後、2度も戦火に逢い、現存する伽藍は寛文6(西暦1666)年に再建されたもので、西金堂とともに残り、東金堂が焼失していたといわれております。丁度、訪れたときは、雨もしとしとと降る晩秋のころで、静寂が似合うお寺だなと感じたものです。
実は、この「海流王寺」には国宝が存在します。それが、「五重小塔」と呼ばれるものです。この「小塔」が作られた理由は何だったのか、その目的がどういうことかという点については、不明な点が多くなりあますが、おそらく、この後に建立される「東大寺」といった寺院の参考になっていくのではないかとも考えられます。
ということで、「海流王寺」をご紹介しました。

続いて、「法華寺」に移りましょう。
「法華寺」は、奈良時代の日本と深く結びついた寺院で正式名称は「法華滅罪寺」と呼ばれ、「国分寺および国分尼寺建立の詔」で、国分尼寺の総本山となったお寺でもありますが、「国分寺」の総本山はどこという疑問がわきますよね。それは『平城外京編』で登場するあの寺院です。さて、このお寺は、養老4(西暦720)年までは、藤原不比等の邸宅でした。

しかし、不比等の死後、遺産相続で光明皇后が、皇后宮としてご使用になられておりました。その光明皇后の発案で、天平17(西暦745)年に、寺院として再出発することになります。ところで「国分寺および国分尼寺建立の詔」が発布されたのは天平13(西暦741)年のこと、この発案は4年後、さらに名称として記録に残ったのが6年後の天平19(西暦747)年です。その5年後の天平勝宝3(西暦752)年には「東大寺」が建立され、さらに天平宝字6(西暦762)年には「金堂の建立が間に合わない」という記述が出てきます。
では、完成したのはいつか、延暦元(西暦782)年と記述で確定されているという話です。その証拠は、建造を司っている役所の解散があげられているからということです。
また、伽藍規模も創建当時は広かったといわれております。東西の宝塔に、金堂、講堂といった建物が多く、国分尼寺の総本山というのは伊達ではなかったというそうです。
しかし、2年後となる延暦3(西暦784)年の長岡京遷都とともに、伽藍が縮小し始め、「海流王寺」とともに南都炎上事件で被害をこうむった後、鎌倉時代に2度再建されます。しかし、さらに2度兵火と地震に逢い、慶長6(西暦1601)年に再建された建物が、現在に至り残っているといったところです。

本堂から入ると、正面に見えてくるのが、光明皇后をモデルとした十一面観音立像です。これを『大和古寺』の著者である井上政次氏は次のように述べています。
「なんと蠱惑的な像であろう。(中略)この像に恋した層があったというのが無理もない。光明皇后の御姿を天竺健達羅(現在のガンダーラ)国の巧師問答師が写し参らせたものだという伝説が生じたのも無理からぬことであろう。が、(中略)どんな男もみだりには犯しがたきを感ずるものである。」
また、『興福寺濫觴記(こうふくじらんしょうき)』に、「生身の観音を拝みたければ日本の光明皇后を拝めばよい」という逸話をもとにしたとされていることから、この語りが出てきたといわれております。考えてみれば、観音は元を考えると、中性的な立ち位置であり男性もそうですが、ここは尼僧から恋い焦がれたというのも考えられなくはありません。
この光明皇后の立ち姿を模した、十一面観音立像の姿は、その目でお確かめになっていただくといいかもしれません。ほかに、収蔵されているのは『平家物語』で出てくる横笛像などがあります。ぜひ訪れてみてください。

ここから、近鉄奈良駅にいったん戻り、そこから近鉄西ノ京駅を目指して進みます。
その西ノ京駅から東に130mほど歩いたところに、「薬師寺」が、北東に530mほど歩いたところに「唐招提寺」があります。
最初に、「薬師寺」についてですが、「歴史編」でも登場するので、疑問となる部分は少し省き、『大和古寺』からの記述と合わせて説明していきます。

「歴史編」では「薬師寺」の建立年代があいまいだといわれておりますが、移転造営に関しての新発見が、ある発掘調査から明らかになってきました。この調査で、新たに移転造営関しての開始年が霊亀2(西暦716)年と書かれた木簡の出土によって、造営開始年がこの年であるという説が有力となっております。
その中で「薬師寺」には東と西に三重塔があり、東塔は『扶桑略記』の天平2(西暦730)年の旧暦3月29日の文言で、「薬師寺東塔」が完成したとされている記事が見えます。つまり東塔は、その時代を今に伝える生き証人という性格も持っております。
ところが、現在東塔も修復工事が進行しておりまして、創建当時の姿に戻り艶やかな姿になるといわれております。主に伽藍は、再建年代を古い順から並べていくと、「東院堂」が最古となり、一番新しいのが「西塔」となります。ちなみに、この薬師寺の中を貫く形で近鉄橿原線の線路が通っており、敷地面積はかなり広く、伽藍の広がりが想像できる寺院といえます。
さて、最古の再建とされる「東院堂」は、もともと元正天皇の皇女である吉備内親王のために建立された寺院をもとにして、この地に移ってきたものであり、「薬師寺」の中では鎌倉時代の息吹を感じる建物となっております。静寂が似合う建物です。 
そのあとは、江戸時代に再建された金堂に回っていきます。その前に、一番新しく再建された「西塔」と復元工事中の「東塔」を両手に見ながら進みます。そして「金堂」に入ると薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)が目に入り、そこを出ると講堂に入り、弥勒三尊(弥勒如来・日光菩薩・月光菩薩)を見ることができます。
なお、講堂を抜けても見どころがあります。それが『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった玄奘三蔵のモニュメント的要素が濃い「玄奘三蔵院」です。実は、「薬師寺」は「南都仏教」の項目でも書いておりますが、法相宗の総本山となっていて、玄奘はその開祖に当たるというわけです。そのために、シルクロードなどで名をはせた故平山郁夫氏の玄奘三蔵に関しての壁画が描かれております。

そこから、北に歩いて500mの処に「唐招提寺」があります。この場所を『続日本紀』では、天武天皇の7男新田部親王の屋敷であった場所に寺院に構えたことになるのですが、この「唐招提寺」が「唐鑑真和尚のためのお寺」という言い方をした方がいいと思います。

 

このお寺は、「歴史編」でも「鑑真和上の流刑地?」という見方があるほど、論争があるといわれております。その伽藍内建立建築物が弟子の妙宝などによって建立されているのですが、それも証拠と言えるかもしれません。
文化財では、伽藍内にある盧舎那仏、千手観音菩薩立像などが金堂内に安置されており、国宝指定を受けております。ちなみに金堂は何度も修復を繰り返し、明治32(西暦1899)年に現在の姿を維持する工法で、再現されております。 特に、唐の香りが漂うような直接、石などで舗装された建築物の外から、中の仏像を窓のように直接見ることができるので、おすすめしたいところです。

一方で御影堂は慶安2(西暦1649)年と「唐招提寺」内では一番新しい建築物で、その周りには、講堂、礼堂、鐘楼といった建築物があります。その御影堂には、「鑑真和上」の銅像が安置されておりますが、ゆっくりとみたい方は、午前中にお尋ねになるとよろしいかもしれません。
また、講堂は中に入ることができる場所ですが、一種の博物館的な要素も持っております。中には屋根瓦の展示、出土品なども拝見することができます。こちらの場合も午前中に、訪れてみてはいかがでしょうか。

さて、最後に大和路を巡るときに、平城京のエリアを訪れるとなりますと、電車以外での移動を考える方もいるかもしれません。その場合は、大和西大寺駅に「レンタサイクル」を行っている施設がありますので、そこを活用してみてください。
もしかすると、あなたなりの旅ができるかもしれませんよ。

(参考文献: 『大和古寺』井上政次著 角川文庫より 『奈良県の歴史散歩』奈良県歴史学会編 山川出版社より 参考サイト:『青森行の「日本海3号」ブログ』より「鉄タビ」シリーズ 「紅葉の奈良へ 晩秋大和路旅 03から13」までを編集)

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