top of page

奈良県の歴史を訪ねる

奈良県の歴史を訪ねてみると、中心となったのが古代の「大和朝廷」の時代から、「奈良時代」までの約500年を中心とした時代で、日本の基礎が築かれた時代でもあります。

さて、その中で一番気になるのが、平城京の話です。「平城京」の枕詞(つまり、地名などの固有名詞を強調する和歌での表現)には「あおによし」という言葉が有名ですが、計画都市として歴史上に登場するのは、藤原京からとされております。しかし、その時代は「平城京」を含めて100年ほどしかありません。その100年の間に、2回も首都が変わったことから、なぜ首都機能が移り変わるのかを訪ねてみようと考えたとき、当時の中国との関係が見え隠れしてきます。

都の形が「藤原京」と「平城京」では異なるという話から入りましょう。もともと、「藤原京」は、唐との関係が悪化していたことから、中央に宮殿を構えた構造となっておりました。しかし、排水設備の問題から捨てられたのではないのか、狭かったのではという説がありますが、それらの問題とは言えない背景があるとされております。
現在の橿原市中心部と、大和三山などを含んだ「藤原京」は、平成8(西暦1996)年の調査で、東西の長さ3.5キロメートルと、「平城京」より巨大都城だったことが明らかになってきています。
では、遷都した理由を明らかにするとどういうことなのか、それは、当時の藤原京が当時あった他国の都市計画とは、ほど遠かった都城が建設されたのですが、大宝2(西暦702)年に唐に赴いた遣唐使たちからの報告を受け、遷都に関しての議題が登って行ったようです。では、遣唐使が持ってきた報告とは何だったのでしょうか。

それを「平城京」の観点から見てみると、実は「藤原京」の置かれた時点で、官僚機構体制は確立されていませんでした。この時期から16年もの間に、官僚体制が整えられていきます。実は大宝元(西暦701)年に『大宝律令』法令を制定、その後重要法案が制定されていきます。慶雲年間に入ってくると、慶雲2(西暦705)年に官職の改正があり、大納言と少納言の間に、中納言を設置するという改革も行っております。また、『大宝律令』の不備を補う目的から、慶雲3(西暦706)年に「慶雲の改革」という政治改革が行われております。
これによって、元明天皇が即位した後、和銅年間となり「平城京」への遷都が決まるわけです。ここから見ても、政治改革が行われたことをきっかけに、官僚組織の肥大化が進んでいたのは事実です。 しかし、遣唐使がもたらした政治改革は、「平城京」遷都後も続けられ、結果的には『養老律令』法令として実を結ぶことになっていきます。こういった形で、遷都したのが「平城京」だとしたら、広さおよび狭さの問題ではなく、朝廷基盤の強化のために遷都したと考えるのが自然だと言えます。

それだけではなく、実は、寺院にもその影響は広がっていきます。一つが、「薬師寺」の移転です。「薬師寺」が現在の奈良市に移ったのは平城京遷都後の養老2(西暦718年)年に建立といわれておりますが、不思議なことに、「本薬師寺」と「薬師寺」、「新薬師寺」と3か所存在し、「本薬師寺」は旧跡として残るものの、そのほかの2つのお寺は現存することになりました。どうしてこうなってしまったのでしょうか。そもそも、「薬師寺」の建立は天武天皇9(西暦690)年に、のちに持統天皇となる天武后(鸕野讚良)の病気平癒を目的として近鉄橿原線畝傍御陵前駅から、東に出たところに建立されたの寺院でした。ところが、現在地に変更したのは『薬師寺縁起』に記述されているのですが、歴史書『続日本紀』にその移転に関する記述がありません。実は、『縁起』の記述はなぜか建立に関しての記述年がかかれているのに、その記述が『続日本紀』にはありません。これは伽藍内の建築物が、白鳳文化時代の作品なのか、それとも天平時代の作品なのか、という議論に直結することになるからなのです。

さらに、「新薬師寺」まであるのですから、ややこしいのに輪をかけたような関係であるのですが、本家「薬師寺」とは異なり、光明皇后が聖武天皇の病気平癒を目的として建立した寺院で関係はないとみるのが普通です。しかし、実際に天武天皇と聖武天皇は、曾祖父と曾孫の関係でありますが、光明皇后はどちらかというと、藤原氏の関係があります。

そういったことから、「藤原京」と「平城京」遷都を考えるには、二つの都の歴史と、この都に影響された寺院の存在を思い出しつつ、該当する場所を訪ねてみたらいかがでしょうか。

(参考文献:『謎解き散歩近鉄沿線』 松尾 光編纂 角川新人物文庫から「藤原京は、なぜわずか16年で廃都になったのか?【耳成駅】」「奈良には『二つの薬師寺』が並立していた!?【西ノ京駅】」「平城遷都はなぜ断行されたのか?【近鉄奈良駅】」 『新全国歴史散歩シリーズ 奈良県の歴史散歩』上 参考サイト:Wikipedia「大宝律令」「慶雲(元号)」「慶雲の改革」)

bottom of page