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大和の歴史一口メモ

大和というと、『大和朝廷』という文言が耳になじんでいるのかもしれません。しかし、大和は大和盆地の通称名でもあります。
さて、簡単に歴史を読み解いていくと、全時代は扱えませんが少しだけメモ程度で触れることができればと思います。

実際に、日本が大小の国家に分かれていた3世紀、4世紀ごろは「大和朝廷」が誕生した時代から、日本の中心地として位置づけられておりました。近年、邪馬台国論争に決着をつけるのではないかとされる遺跡(正式には「遺構」とされております)が、JR桜井(まほろば)線の巻向駅近くで発見され、注目を集めておりますが…、「大和朝廷」がその子孫だとする説があり、奈良盆地全体を見渡しても、数多くの古墳が点在していることも、この地がいかにすごかったのかを物語ります。

「大和朝廷」の成立以降8世紀に至るまでの約400年間は、飛鳥地域が歴史の中心となっていきます。その中で、持統4(西暦690)年に着工し、4年をかけて完成した藤原京は中心に宮殿などを持つ、初の本格的な都市計画として後世に知られる存在ですが、同年代の唐長安のスタイルを取らなかったことから、16年後(和銅4{西暦710}年)に平城京に遷都することになってしまいます。遷都の一因が何だったのかについては、諸説さまざまといわれておりますが、最大の原因といわれるのが、汚水の宮殿地域への流れ込みがあったために、遷都したという説もあるそうです。

その間に花開いた『白鳳文化』については特集記事を組んでいますので、そちらを参照してください。平城京に遷都した時期から、日本の首都として、74年間も機能します。その中で一大イベントとなるのが、「大仏開眼」でしょうか。それについては、経緯を含めて「大仏と天皇」で特集していきます。

平安時代以降は、歴史の舞台が奈良から吉野へと変わります。その理由には、中央政府と寺社勢力対立(例としたら、平家の東大寺および南都制圧)による衰退が理由に挙げられますが、ただ単に歴史的な事件を上げると、鎌倉幕府開府の東大寺再建だけになります。 ところが、『太平記』(鎌倉末期から室町初期にかけて)の時代に注目されるようになったのが、吉野です。理由は、室町幕府を開府し、天皇を擁立した北朝と、もともと天皇自らが政治を行っていた(親政)を行っていた南朝に別れ、南朝の根拠地が吉野だったということで注目されていきます。

室町時代後期から戦国時代にかけて奈良では、織田信長の後押しを受けた筒井順慶が、勢力を拡大させて支配しますが、豊臣秀吉が天下を統一すると(天正18{西暦1590}年)、中心地は豊臣秀長の治める大和郡山に移り、安定していきます。

さらに、慶長5(西暦1600)年の関ケ原合戦以降は、郡山藩と幕府の天領(奈良市と五條市がこのとき指定され、橿原市今井町地区も含まれておりました)を中心に動くことになります。ちなみに、この時期の奈良が、奈良市の産業である観光都市の原型が生まれます。これは特集記事「観光都市『奈良』」にてお話しします。
明治維新以降は、奈良県と各地を結ぶ鉄道が敷設され、大都市圏の大阪の中心部を結ぶ路線、京都を結ぶ路線があり、奈良県の中央部を走る路線などなど交通によって、ほかの都市とつながった時代となり、現在に至ります。少し長すぎたかもしれませんが、一口メモを終わりにいたします。

(出典:Wikipedia「奈良県」より、一部参考:『謎解き散歩近鉄沿線』 松尾 光編纂 角川新人物文庫から「藤原京は、なぜわずか16年で廃都になったのか?【耳成駅】」より)

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